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個別指導 フロンティア

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塾長プロフィール

塾長あいさつ

未来の宝である子供たちの無限の可能性を引き出すお手伝いをさせていただきます。
藤野輝彦
名前 藤野輝彦
出身地 埼玉県
血液型 A型
学歴 日本大学 経済学部経済学科卒
資格 中学校・高校社会科教員免許、簿記2級、インテリアコーディネーター、福祉住環境コーディネーター2級、カラーコーディネーター3級
信条 人の役に立ち、社会に貢献する人生をおくること
趣味 スキー、ボウリング、空手(初段)、ウクレレ

はじめまして、塾長の藤野輝彦です。

2016年2月に社会に出ていく子供達の成長を応援できるような教室を作りたい!と思い、「個別指導フロンティア」を開校しました。

「個別指導フロンティア」では、生徒さん一人一人の個性を大事にし、自分で立てた目標を自分の力で達成する力を養成します。

そのために、学習の結果ではなく、プロセス(過程)を重視します。

一時の結果を追うのではなく、真の力を備えるためには、日々の「学習習慣」をしっかり身につけることが大切です。 「学習習慣」を身につけ、自分に合った勉強法を知りながら学習を続けると、結果として、成績が上がっていきます。
社会に出ても役立つ自立力を身につけるために、生徒一人ひとりのプロセスを重視した『真の個別対応』を実現します。

■塾長物語

少し長くなりますが、大切なお子様を預けていただくのですから、私がどんな人物かを知りたいという方のために載せております。ご参考になれば幸いです。

▼原点

中高生のころ、学校を舞台にした「ゆうひが丘の総理大臣」や「教師びんびん物語」といった青春ドラマが大人気で私も大好きでした。個性的で型破りな先生が生徒と真正面から向き合い、ぶつかっていくことで、さまざまな生徒たちの心をつかんでいく。自分もそんな先生がなれたらなぁと当時憧れたものです。 また私は人にものを教えることが好きで、友人から勉強のことで質問されれば喜んで教えていました。教えた相手から感謝されることはとても気持ちがよく、誇らしい気持ちになったのを今でも覚えています。このような体験とドラマの教師へのあこがれが今、塾を経営している原点になっていると思います。

 

 

▼出生

1967年1月8日、今では埼玉県内有数の観光地となって海外の人が毎日たくさん訪れる小江戸・川越で生まれました。

1歳頃

 

▼幼少時代

母に聞いたところ、真面目でしっかりしているけれど、少しおっちょこちょいなところある子で、三人兄弟の長男として兄弟想いの私は、弟と妹の面倒を見るのに奮闘していたそうです。

三兄弟

 

▼少年時代

父親が海上自衛隊の通信士だったので転校が多く、小学生3~4年生頃になんと日本の最南端、鹿児島県よりさらに南の沖縄との間にある奄美大島諸島の喜界島というとても小さな島に転校しました。

そこは当時、島の道路に信号はひとつもないというくらい田舎で、テレビの番組はなんとNHKのみ。飲料水は、海水を蒸留しているのでよく見るとサンゴの粉が混じっているという有様。大人には大変厳しい環境でしたが、一年中暖かくて海に囲まれた自然たっぷりの環境は私たち子供にとってまさに楽園!私は毎日暗くなるまで外で友達や弟と遊んでいました。

喜界島の思い出

当時、近所に剣道を指導してくれる方がいて、私も弟と教えてもらっていたのですが、ある日その先生が、「剣道の防具を親に買ってもらえ、買ってもらえなかったら家出しろ!」
といったので、純粋な子供だった私は、親が買ってくれなかったため弟とともに本当に家出してしまったことがあります(笑)。

家出と言っても親に見つからないように近くのやぶに隠れただけですが、暗くなってきても親に探している様子がなかったので、「なんて親だ・・。普通もっと心配しないか?」とぶつぶつ弟に文句を言いながら早々に断念して帰宅したのですが、父親は少し心配して車で家の周辺を探していたようで後でずいぶん怒られました。

またある日、近所の平屋の屋根にあった巣から落ちていたすずめの雛を拾って飼ったことがありました。遊びに行くときも野球帽に入れて連れていくほどかわいがっていましたが、そのすずめがだんだん大きくなり、羽が生えてぴょんぴょんと跳ね歩くようになったころにショッキングな事件が!

朝、居間で畳の上を跳ね歩いていたすずめが突然いなくなったのです。辺りを探す私の視界にすずめがいたはずの場所にでんと座っている父親の姿が。慌てて父をどかすとそこには、哀れにも父のおしりにつぶされたすずめが・・・。

あまりの衝撃とあの時の悲しい気持ちは今でも忘れられません

でもそのとき、母の「本当は屋根から落ちたとき死ぬはずだったのをお前が助けて今まで生きられたのだから、きっと感謝しているよ・・」という言葉に慰められました。

そして6年生の時には島から埼玉県川越市にもどってきたのですが、そこで初めていじめにあうというつらい経験をしました。幸い、ひどいことにはならず短い期間で終わりましたが、そのときの辛い気持ちはとても強く心に残り、いじめなんて卑怯で本当に最低の行為だ。自分は絶対にしないぞ!と心に誓ったことを今でも覚えています。

 

▼中学時代

中学時代は真面目一辺倒の少年で野球部に入って頑張ったのですが、身長が伸びず、この頃はあまり運動能力も高くなかったため、当時の野球部は同学年で30人もいるという大所帯で練習試合にも出れず、本当にまいりました。

野球少年時代

もっと悔しかったのは3年生秋の体育祭での出来事。雨模様のため演目が変更になり、棒倒しが先に行われることになりました。地面がぬれている中、攻撃部隊として敵陣地へ突進しようとした私は、ぬかるみに足を取られて右肩から転倒し骨折!
そのまま病院送りとなってせっかく楽しみにしていた自転車遅乗り競争や仮装行列に出れずじまい・・。あの時は本当にショックで骨折よりも心がへこみましたね。

そんな中学時代でしたが、学業成績はクラスで2番、学年でも上位だったので先生からは心配のない優等生と見られていたようです。

その時成績アップに結び付いた学習方法ですが、テスト1週間前の学習計画を自分で綿密に作成し、そのとおりに実行するようにしていました。計画は、どの教科を何時間やるといった時間割はなく、テスト範囲をコマ割りして1回目は教科書の15ページから25ページまで、2回目は26ページから35ページまでというふうに範囲をきめて学習していました。これは和田和樹の著書、「受験は要領」でも「学習は時間ではなく、量でやること」とあったのでこの勉強法は正しかったと今では確信しています。

 

▼高校時代

高校時代は県下でも指折りの歴史ある進学校に入学しました。

学業とともに空手道部に情熱を燃やし、その結果、埼玉県大会で個人型3位、団体型2位、団体組手2位、国体県予選個人組手ベスト8などの好成績を修めることができました。その要因は、身長も人並みに伸びたこと、なにより真面目に人一倍稽古したこと、武道で大事な自己を厳しく律する精神がほかのスポーツよりも自分に合っていたことなどではないかと思っています。この空手道部時代の同期生とは今でも男の友情が続いています。

空手部時代

 

ただ・・、高校時代と言えば彼女がほしいもの。あいにく男子校なので、出会いはゼロ!そこで女子が校内に来てくれる唯一のチャンスである文化祭でダンスを完全マスターして頑張ったのですが、結局声をかけることができず、高校生活はジ・エンドとあいなりました。そして3年生まで部活三昧だったため、受験勉強に出遅れて、浪人生活へ突入するはめに・・。

 

▼浪人時代

浪人時代は、一橋学院という予備校に通いましたがここでも真面目な性格が災いし、常に勉強をしなければならないという強迫観念にとらわれて息がつまるような1年でした。

当時は受験人口がピークを迎えていた時代。しかもフリーターなんていない時代でしたから、世間的に学生でもなければ社会人でもない言わば身分のない状態が、こんなにもつらいものかと痛感しました。

そのため、最初から全力で勉強しなければならないと思い、上手に1年間のペース配分ができずに試験前に息切れしてしまったため、最終的に思うような結果が得られませんでした。

今考えると目標とする大学の試験問題を攻略するための勉強ができていなかったように思います。「受験は要領」という本に、大学受験に成功するコツは、受験大学の過去問題に早くから挑戦して、その傾向をとらえてそれに特化した勉強法が必要とありましたが、当時の自分はそのことに気づけなかったのでそれが今悔やまれます。

公立高校受験の場合は、統一試験なので少し違いますが、試験を攻略するために特化した学習が必要なのは全く同じなので、自分と同じ失敗をしないよう生徒たちには試験攻略のための学習法を徹底的に教えて合格という勝利に導きます。

また、高校受験には内申点が非常に重要であり、それは学校の定期試験の結果が反映するので、その試験対策も同様にしっかり指導します

今は私の頃と違って有名大学を卒業しても希望の就職や進路を勝ち取れるわけではないので自分の夢や希望をしっかり持って、将来の目指す道を選び取れるような人になってもらいたいと考えており、そのための指導やアドバイスを心がけています。

 

▼大学時代

私の大学時代は、ウインタースポーツが花盛り。映画「私をスキーに連れてって」のユーミンの歌にのってスキーをすることが全盛期の時代で私自身もその流行に乗り、スキーを始め、今では生涯続けたいと思うような趣味になっています。ただこの時のスキー焼けが30半ば過ぎた頃になってけっこうなシミとなって顔に出てしまったのが唯一残念な点です。(女性の方でスキー好きな人がいたら肌のケアには十分ご注意を)

スキーはまり時代

 

その頃教師を目指して教職課程をとり勉強にも努力していたのですが、大学生ともなれば女性の友達もそれなりにいたので、4年次に母校松山高校で教育実習をした時は、初めて男子校の異様な雰囲気を理解しました・・(笑)。

最終的に教員試験を受けるつもりだったのですが、この時代東京都ぐらいしかこの手の情報が学生課に張り出されていなかったため、気が付けば埼玉県の受験申し込みは終了、教員を泣く泣く断念するはめに。言い訳と言われればそれまでなのですが、今はインターネットで検索すれば何でも情報が手に入るのでその点については正直うらやましく思います。

アルバイトは1年生の時から西武球場でビール売りやっていて4年次にはバイトを監督するリーダーをしていました。サークルにはあまり顔を出さなかったのと先述のバイトで知り合った女性とデートをしたりもしましたが真面目な性格が災い(?)して特に発展せず。

バイト時代

 

それはともかく、大学1年の頃、一度死にかけるという経験をしました。

周囲からはたいした怪我もなく助かったのは奇跡と今でも言われます

それは運転免許取り立ての大学1年生のとき、親戚の家へ遊びに行く途中で起こしてしまった自動車事故。

高速道路を降り、交通量のあまりない道路を走っているときに赤信号の交差点へ侵入してしまったらしいのです。らしいというのは、その時記憶がないから。想像するに睡魔に襲われて意識が飛んだために赤信号無視をしてしまったようです。

そして右から来たトラックが運転席を直撃し、約50m引きずられて停止。病院送りに・・。

事故後の自動車の写真を見ると運転席のドアを中心に大きなへこみがあったのですがそれがこちらの写真。

事故後の車

 

奇跡的に右頬にガラスの破片がささる程度の顔面裂傷のみで頭・体ともに骨折もなく、1週間で退院することができました。
顔面は2度形成手術を受けなければならなかったので、その点については軽いものではありませんでしたが、似たような事故でこの写真のような事故後の別の車の写真を見せてもらったところ、その車に乗っていた方は即死だったそうです。

その経験から、どんなにまじめに生きていても人生は何が起こるかわからないと感じました。

自分自身の過失なので? 大いに反省したのですが、やはり運命というものはあると感じた出来事です。それなりに真面目に生きてはいたので特に生き方に変化はありませんでしたが、家族や友人への感謝は深まりましたし、自分が生きていた証(あかし)というものを残したいとは強く思いました。

それからは仲間や友人を助け励ますことにより、その人たちの心に自分という存在が残り、自分の存在が友人たちの人生に良い影響を与えられることが自分の存在意義だと感じるようになりました。そして、その確かな実感が自分の人生に自信をもって生きることにつながっています。

 

▼会社員時

就職は、池袋にある大手デパートの東武百貨店に決めました。
当時同僚の女性から、100人以上いる新入社員の中で5本の指に入るイケメンだと言われました。

新卒の同僚と 同フロアの女性と

 

その言葉にドキドキするような出会いもあるだろうと期待していたのですが、配属されたのは女性が多く華やかな売場ではなく、オヤジばかりの外回り営業部署である外商部・・・。

事務所は百貨店外と建物も別だったために女性社員と仕事する機会もなく告白されることはおろか、女性から誘われることもなく、5本指の人気があるとは到底思えないほどでいい思いをしたことはほとんどありません(泣)。

それでも生来の真面目な性格がやっと功を奏したのか入社半年後には早くも半期で個人予算5,000万円をもたされ、5年後8000万円まで増加するも年間実績ですべて予算クリア。

入社3年目にしてお客様からの賞賛や特別な業績をとった社員を表彰する制度である社内表彰ファインスター賞をいただくことができました。

その後、売場へ異動し、ブランドショップの売場、紳士服部、婦人服部と多種多様な業務を経験した後、2005年10月、法人外商部へ異動し、百貨店とは思えないほどの特殊業務に就きました。

これは主に学校法人対象の営業活動を行い、校内で使用するあらゆるものを販売・手配する仕事なのですが、非常に厳しく大変な仕事でした。

例えば金額規模の大きい仕事として新築校舎や改装教室に設置する家具備品を納品するという案件があるのですが、建築には建設会社・設計会社が絡むので入札を勝ち取ったらすぐに学校の意向をふまえて各会社と交渉・調整を行います。

そして製品を購入する取引先への手配、建物への納品に必要な現場調査や各社への調整、実際の納品作業にも立ち合って現場監督と、一から十まですべて自分1人、もしくは設計担当者とたった2人で行うというハードワーク・・・。

この仕事を約10年間誠実かつ地道にやり続け、年間3億円程度の予算をクリアし続けました。

現場が続くと、休日返上は当たり前、月残業時間100時間を超えたことも何度かあります。
一番大きな額の物件は、有名私立学校の新校舎の備品で約3年にわたり関わり、約5億の売上をあげました。

東武百貨店時代

 

しかし、待っていたのは会社の売上不振による賞与カット!小売業界は売上減少の時代が長く続いていたため、会社自体の成績不振により一番の売上成績をあげた私を含め、全社員が賞与なしという厳しい現実。

それでも営業から製品の発注手配、納品、現場作業から伝票処理と一から十まであらゆる仕事をこなすスキルを身につけられたのが、私の一番大きな財産です。

そんな大変な会社員時代でしたがラッキーなこともありました。

当時スポーツカーとして人気の高かった「プレリュード」という車をたった5万円で譲ってもらえたこと。

プレリュードの写真

 

ちょうど車が必要になっていた時期だったのですが、知り合いの方が突然、「藤野くん車買わない?」と言ってきました。「全然金ないから無理ですよ。いくらですか?」「5万なんだけど?」「えっ~」ということで学生時代に憧れていたスポーツカーをわずか5万円でこの手に。その後車は5年間使い倒したので十分すぎるほど元は取れました。

何より大きかったのは、会社で今の妻に出会えたことです。
他部署にいる同期の女性に飲み会をもちかけ、その女性が連れてきた女性が妻でした。
後で知ったのですが、妻は売場で会ってもあまり笑顔のない私のことを実は嫌っていたそうです。それが飲み会での気さくで笑顔の私を見て、印象が良くなったようです。今思えば、もっと笑顔でいればモテたのかもしれません。と言ってもIT業界で自分の思いのまま好きなように生きている弟に言わせると、不器用な生き方しかできないのは今でも変わってないそうです。

新婚旅行時の写真

 

▼開業まで

一般企業で働いて40代後半になり、自身の人生を振り返った時、このままでいいのかという思いが強くなり、かつて教師を目指した情熱が再燃。

子供二人を育てていく中で、教育にかかわる仕事がしたいと考えるようになりました。

熟慮した末に子供たちにとって、学校が過ごしやすい場所と言えない今の時代に安心して学習できる場所を提供したい、未来をつくる宝である子供たちを守り育てたいという思いが募り、学習塾の開業へと踏み切りました。

子供たちとの写真

 

<趣味・特技>

ボウリング。自己流ですが最高スコアは264点。学生時代はボウリング場の月例大会に良く参加して電化製品などをゲット!さらにポイントを集めてボウリングボールを無料でもらうほど、通っていました。

ボウリング仲間との写真

 

スキー。弟に言わせるとプロ級だそうです。
大学時代から今まで毎年欠かさず楽しんでおり、北海道のスキー場まで行ったのは数知れず、ついにはカナダの有名スキー場まで足をのばし、その近くのバンフスプリングスというお城のようなホテルに泊まるほどはまってます。

カナダのスキー場

 

30歳を過ぎてから、楽器を弾けるようになりたいと思い、ギターに憧れていたのですが結構高額なのであきらめ、ウクレレに挑戦。1年間スクールに通い、一応弾けるように。オーダーされればいつでも弾きますよ(笑)。

ウクレレを弾いている写真

 

 

<おまけ>

20代のころのテレビで人気の番組「アメリカ横断ウルトラクイズ」に友達と参加。
「もし、勝ち抜いたら会社休めるかな・・」なんて言い合いながら、ウルトラクイズに参加するために初めて取得したパスポートをもって、意気揚々と参加しましたが、後楽園球場の第1問の○×クイズで玉砕、涙を飲みました。それも今ではいい思い出です。

塾長 藤野輝彦

TEL: 048-945-0939
住所:埼玉県草加市清門1-276-3

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